2020年10月8日  朝倉義景さんについて。

  こんにちは伊予之鈍才です。

 

 今まで知っていたことと違うことが今月になって知りました。実際参戦した人でも覚えているか?直接見た人がどうかみんなそれぞれに立場思惑などあるでしょうしのちの人が生活のためとかその時代の政治利用もあったようで本当のところはどうかはわかりません。

 安泰のように言われていた越前ですが朝倉孝景(10代目)と弟は仲が悪かった。孝景により滅ぼされたようですが、朝倉宗滴がいたから混乱がなかったのでしょうか?朝倉宗滴が亡くなって人材も乏しかったとの意見もあるようです。

 余談ですが凄かったのは恐らく7代目の朝倉孝景

 朝倉景健が主に戦を担いとかそれぞれの役職あって義景が口を出すことは出来なかったという話もありますが政がどの様になっていたかで伝わっていた内容と実際にどうであったか確りとした資料から紐解いてほしいです。

 朝倉景士鏡は殺された人の子供やはり宗滴がいたので下手に動くことができなかったのでしょうか?最後の裏切りは自分のためだけ?父親の敵討ち?

 応仁の乱(当時も応仁の乱とよんでいたのでしょうか?)以降守護大名になり国を守る今でいう法律をつくったでしょう?城主のありかたはどうであったか?

 勝手な想像ですが朝倉孝景(10代目)頃から末期症状だったかもしれませんね。もしかしたら宗滴が新しく台頭してくる勢力に負けないように改革を行いたかったかもしれませんね。周りとの戦で朝倉を立て直す機会に恵まれなかったのかもしれません。優秀な人材が育たなかったのかもしれません。あくまで勝手な想像でしかありませんが。盤石ではなかったようです。研究が進み新たに知らない情報が出てくることを楽しみにしています。

 皆様くれぐれもお体には気をつけてください。